鶫の書

鶫書房房主の古書蒐集と読書の記録です。

西部古書展書心会

 

 2022年3月11日である。東日本大震災より11年である。犠牲者のご冥福を祈り、黙禱する。

 

 西部古書会館にて「西部古書展書心会」。

 

 田中香涯還暦記念歌集『草籠』(私家版・昭和9年) 200円

 於保多梅村歌集『庭櫻集』(紫羅闌花社・昭和10年) 函 400円

 

 田中香涯(1874-1944)は「變態性慾」主筆。いわゆる旧派の歌風で74首。「言の葉の藻屑ばかりをかきつめて机の島に身は老いにけり」。本当だ。私もこうなるにちがいない。

 

 於保多梅村は「国民文学」で半田良平の門下にあった人らしいが、それを辞めて、自ら紫羅闌花社を興したらしい。まったく知らなかった歌人だが、歌誌「紫羅闌花」は、少なくとも昭和50年代までほ続いていて、国立国会図書館所蔵の同誌は第49号(昭和51年5月)、編集人は中田春園という人のようだ。紫羅闌花はアラセイトウと読む。

 

 他に最近購入した本。

 

 清水房雄斎藤茂吉土屋文明―その場合場合』(明治書院・平成11年) 函 85円

 菅野昭彦歌集『感傷風景』(短歌新聞社・昭和47年) 450円

 吉野昌夫歌集『夜半にきこゆる』(短歌新聞社・昭和50年) 函 50円

「櫟原」第54号

 2022年3月9日である。

 

 千葉県市原市の鈴木仲秋先生より「櫟原」第54号を賜る。毎号楽しみにしている。

 

 【見る】は市原市武士古墳群(武士三山塚)の馬頭観音の碑のお話。鈴木先生のこれまでの見聞から、この近くを通っていたとされる藩道との関わりが語られるが、「過去は多く伝承によって解るだけとなった今、伝承者も少なくなって、このままだと百年前のことも知ることが出来なくなるに違いない。」という危惧に同感した。行政や地域住民が智慧と力を合わせて、何か出来ないものかと思う。

 

 【語る】は、長井英明「偶然」、山田賢「思いつくままに」、逸見悦子「手編みの虜に」の三篇の読み物。それぞれ印象的な一節を引く。

 「偶然は作爲のないところが價値なのであつて、小細工を弄して表面的な形をとりつくろつても、自分の心は欺けない。滿たせない。」(「偶然」)

 「その小団地の南側は東から延びる、ごく細長い舌状の大地になっていて、そこには中近世の塚が幾つか所在した。現在は一基が残存しているに過ぎない。……こうしたかつての土地の状況などを、図面や文字で記録して後世に伝えて行くことも必要ではあるまいか。」(「思いつくままに」)

 「息子達が成長すると、交友関係も広がり、同じ形のセーターを息子と、その友達にも色違いで何枚も編んだことだったが、その写真付きのページは、すぐに出てきた。懐かしくて当時の息子達の会話や、仕草までが浮かんでくる。」(「手編みの虜に」)

 

 【詠む】は鈴木先生の短歌「遠き海の音」15首。これもすばらしい。好きな歌を引く。

 北国の雪の便りを 読みてゐる この静けさのなかに 漂ふ

 黝ずみし仏の姿の 経て来たる年月 拝む。老いし幾人

 曇りつつ 心づくしの風ふきて、背戸の椚葉 音立てて散る

 玻璃の壺を通して 歪む秋が見ゆ。ひととき明るく ひととき暗く

 妻の喪の終る師走に 山の音を かそかに聴けり。暁近く

 

 特に引用5首目には心打たれた。

 

 【古典の窓】は佐度原嗣世「更級日記の歌(三十一)」。最近の発掘調査の成果等も踏まえながら、当時の暮らしの細部についても考察を加え、歌を読み解いていく。

 

 【声】はK・Y生の「日本語の修練」。前登志夫が安騎野志郎の筆名を用いていた頃の思い出に触れつつ、その著作『山河慟哭』の「今日の短歌の世界ほど生真面目に日本語を修練し、誠実に現代を生きようとしている姿はないだろう。ただこの定型詩は文芸の一形式としては当世向のものではないので、歌人の悩みは単純ではない。」という記述を紹介し、近年の口語歌における俗語の使用に疑問を呈している。

 

 鈴木仲秋先生をはじめとする会員の皆様のご健康を心よりお祈り申し上げます。いつも楽しい気持ちで学ばせていただいております。ありがとうございます。

十月会例会

 2022年3月8日である。

 

 今夜はとしま区民センターにて「十月会」の月次例会である。天候がわるいかったのが影響したか、参加者がいつもより少なかったのは残念だった。しかし、久しぶりに元気な御姿を拝見した歌人の方々もいて、私としては有意義に、楽しく過ごせた一晩だった。毎月の例会は、結社に属していない私にとってはかけがえのない思い出にもなっている。ここで世代を超えて多くの歌人と知り合い、共に学ばせていただくことに感謝したい。同世代では私のような無職者に近い者でなければなかなかこういう会に参加することは難しいと思うが、是非参加したい方があれば、鶫書房宛に御連絡いただきたい。同世代だけでは味わえないおもしろみがある。

 

 「十月会」は昭和29年に石黒清介、横田専一らを中心に創設、超結社の研究集団として、毎月の研究集会を重ね、機関誌「十月会レポート」を発行している。かつては『十月会作品集』『戦後短歌結社史』『戦後歌人名鑑』などを刊行し、歌壇に寄与するところ大であった。近年はこのような大きな活動はしていないが、それぞれ継続して研究している主題があり、その発表に重点を置いている。

昭和26年の歌壇言葉

 2022年3月6日である。

 

 片山貞美「現代歌人論」を読もうと『日本短歌』(日本短歌社・昭和26年10月号)を読んでいたら、「歌壇言葉ニユウ・ルツク」という埋め合わせの欄があって、そちらのほうが面白かった。「あなたの心に浮んだ歌人の名前をこの下にあてはめて下さい。」とある。

 

 1 集会歌人……歌会、出版記念会、地方短歌大会などにまんべんなく顔を出して名前を売っている歌人。揶揄されているが、コロナ禍以後の歌壇にいると、懐かしささえ感じる。

 2 フアン・レター歌人……歌集が出ると誰彼となく手紙を出して褒め上げる歌人。別名ウインク歌人。時間と労力がかかっているし、行為自体はいい事だと思うけれども。

 3 ロケ歌人……旅から旅へと飛び回り、地方歌人にチヤホヤされ、花形役者になったつもりでいる歌人。好きでやってる人もいれば、頼まれて仕方なく、といった人もいる。

 4 発行所歌人……どんなに小さな雑誌でも発行所を持ちたがる歌人。これも現在ではやむを得ずその役を務める場合が多い。

 5 原爆歌人……その発言が歌壇に大きな破壊力を持つ歌人。その「唯我独尊的態度」が批判されている。少しこれは特殊な事情があって、当時原爆被害者の歌人たちは社会運動にも積極的であり、歌壇人から見ると歌壇など問題にしていないように見られたのである。そういうところからの心情的な批判も含んでいる。

 

 いまとなっては、どのタイプの歌人も批判や揶揄の対象となることは、ほぼないだろう。肝心の片山貞美「現代歌人論」は驚くほど字が細かくて、複写ではよく見えなかった。

古書愛好会

 2022年3月5日である。

 

 西部古書会館にて「古書愛好会」。本の少なさにびっくりした。中央の通路両側が何もないので、全部で五列しかない。ここで三十分以上時間を使わないといけない事情があったので、何度も見て、以下のものを買った。

 

 上村占魚『會津八一・俳句私解』(中央公論美術出版・昭和58年) 函 帯 100円

 『書斎』(三省堂昭和15年2月) 200年

 『書物礼讚』(杉田大学堂書店・大正15年1月) 300円

 

 『書斎』と『書物禮讚』は雑誌。

 『書斎』には「私の愛蔵書」の回答者の中に、松村英一、佐佐木信綱、大塚金之助、五島茂がいるからである。

 『書物禮讚』は、三谷草夫「歌集一覧」、尾崎久彌「蛇足録」(前半で三谷の一覧の訂正と補足をする)があるからである。ゆまに書房から復刻版が出ているけれども、これくらいならばと。

 

 今週ネットや近所の古本屋で買った古本。

 

 長谷川銀作歌集『烟景』(墨水書房・昭和16年) 100円

 長谷川銀作歌集『寸土』(長谷川書房・昭和27年) 署名 100円

 玉城徹歌集『徒行』(不識書院・昭和61年) 函 1000円

 吉田松四郎歌集『忘暦集』(短歌新聞社・昭和48年) 1500円

 

 長谷川銀作歌集『烟景』と『寸土』はそれぞれ二冊目だと思うが、一冊目がどこかに隠れているし、安いので買う。人間心理の観察に長けた端倪すべからざる歌の数々。別項で紹介する。玉城徹の歌集は近年さらに高騰気味なので安価と言える。吉田松四郎歌集『忘暦集』、これが長年探していたもの。千円以上の本も買うんだ、と自分に驚く。

東京愛書会

 2022年3月4日である。

 

 東京古書会館での「東京愛書会」。久しぶりだったが、特に何も買うものがなかったので、書くことがない。

 角の棚でお爺さん二人がほんの一瞬いさかいを起こしていたが、いっぽうが身を寄せたので収まった。

 また、白っぽい本も黒っぽい本もあって内容も硬軟雑多な棚の前で、「このへんの本ならもうみんな持ってるでしょ」「持ってる持ってる」などと会話しているお爺さんたちがいて、ずいぶんな法螺を吹くものだなと思った。

 あまり混んでいなかったのに、二回も突っ込まれた。周りを見ていないのである。お互いに。

 明日の「古書愛好会」に期待しよう。やっぱり高円寺のほうが性に合うなと思った。

早稲田、古本屋、飴

 2022年3月3日である。

 

 それにしても早稲田の古本屋街のさびれかたには悲しいものがある。昨年のことだが、私は十数年振りに訪れて、そう感じた。買いたい本も店頭にはほぼなくて、たまにあったとしても値札が昔のままなのか、高い。BIGBOXや穴八幡の古本市もなくなってしまったし、もう高田馬場や早稲田に行く用事がなくなってしまった。

 

 店主の高齢化が進んでいる。ある店主(の奥さん)と少しお話した。「本当はやめたいんだけどねえ」とおっしゃっていて、今は古書展にも参加せず、店頭での販売と「日本の古本屋」への登録のみで売っているらしい。だが、店主も奥さんもテキストの打ち込みは出来ないのでアルバイトを雇っていて、その人件費が大変なのだというのだ。古書展用に準備していた倉庫の在庫もそのままだということだったが、そこを見せてくださいよ、と言うわけにもいかなかった。その奥さんには帰りに飴をもらった。また、別の店では、かなり高齢の老夫婦が「お昼、あたしはコロッケとパンでいい」とか言っていて仲良しでいいなと思いながら、店を続けるのもなかなか大変なことだなと思った。

 

 私も久しぶりで勝手が分からず、初めて上京した時みたいにきょろきょろしながら歩いた。だからだろうか、二人の人から学生扱いしてもらって、少しうれしかった。それだけ齢をとったということで、年寄りらしく、帰りにきんつばとあんころ餅などを土産に買って帰った。町田康の『東京瓢然』の穴八幡のくだりなども思い出され、天気がよかっただけに、なおさら明るい悲しみを感じた。