鶫の書

鶫書房房主の古書蒐集と読書の記録です。

第101回彩の国所沢古本まつり

 2022年3月2日である。

 所沢のくすのきホールで恒例の古書展「彩の国所沢古本まつり」。私が買う本はほぼないと分かっているが、会場が広く出店数も多いので行く。雰囲気ものんびりしていて楽しいのだ。

 

 小倉三郎『まぐろの感覚』(多摩書房・昭和49年) 帯 署名 250円

 

 これはうれしかった。アナキスト短歌といったらまず名を挙げるべき歌人日本橋に生まれ、築地の魚河岸に育ち、前田夕暮に心惹かれ、西村陽吉の『藝術と自由』に参加。庶民の反抗精神、怒りが爽やかです。そして生活の哀歓。「小倉三郎」のサインが独特で格好いい。

澄宮(三笠宮)、庄野英二、童謡

 2022年2月28日である。

 

 庄野英二『鶏冠詩人伝』(創元社・1990年)に、こんな挿話がある。

 庄野(1915‐1993)は大正11年(1922年)、父貞一が初代校長を務めた帝塚山学院幼稚園に入園したのだが、当時、大正天皇の第四皇子である澄宮(後の三笠宮、1915‐2016)の詞に曲のついた童謡が盛んに教えられていたという。澄宮は庄野と同じ大正4年(1915年)生まれで、子供ながらに宮の詩才に感心したという。庄野がうろ覚えでその詞を書いている。

 

 「サトウ」

 サトウハ アマクテ シロクテ オイシクテ ギュウニュウ ナンカニ イレテノム

 

 「デントウ」

 宮クンガ イソギ ゴショヨリ カエルトキ マチニ デントウ ツキニケツカナ

 

 「坂道」

 四十四、五ノ バアガ 車ヲオシテ サカミチノボリケルラン

 

 「田母沢川」

 タモザワガワワ ナンデモ ナガセ ミナナガセ

 

 二作目は短歌の音律になっている。これは、庄野が幼稚園に入園した大正11年に発行された『澄宮殿下御作童謡集』(大阪毎日新聞社)を見ると「ミヤクンガゴシヨヨリイソギカヘルトキマチニデントウツキニケルカナ」である。少し語順や仮名遣いに違いはあるが、庄野はほぼ正確に覚えていたようだ。よほど印象深かったのだろう。子供が作った歌だから内容は簡単だけれど、御所からの帰りにパッと電燈がついて街の様子が変わったを感受のしているところが好ましいし、カタカナ書きも活きている。澄宮が自分を「ミヤクン」と呼んでいるところなど微笑ましい。庄野のうろ覚えの詞ではあるが、なるほどなあ、と私も澄宮の詩才に感心してしまった。一作目と四作目が特に好きだ。

 

 かつて塩原温泉にあった「塩原御用邸」は現在「天皇の間記念公園」になっているが、そこに三笠宮の歌碑があり、「しほばらの鳥居戸山に出る月は泣き虫山もおなじなるらん」という宮の歌が刻まれた歌碑がある。これも「童謡の宮様」と呼ばれた人ならではの、童心あふれる歌である。

 

 三笠宮は私にとっては最も親しみ深い皇族で、私も以前会員だった日本オリエント学会名誉会長の時に、何かの式典に臨席していた。もうかなり高齢だったこともあって、とても静かな印象であった。

 

 往時の『少年倶楽部』の附録には「少年倶楽部誌友名誉証書」などというものがあって、そこには軍服姿の澄宮の写真が掲載され、「皇室を尊び、御国を愛します。」から始まる「宣誓」が記されたりしていた。それだけ澄宮の少年人気は高かったのだろうと思う。

好書会

 2022年2月27日である。

 

 西部古書会館で開催されている「好書会」の二日目へ。閑散としていて、客としては快適な環境。帳場でのやり取りに笑う。

 「○○さん、電話。可愛い女の子の声……」

 「えっ、あ、」

 「噓だよ」

 有線なのか、内山田洋とクール・ファイブなどがかかっていて、少しだけ昭和の雰囲気であった。つられて歌い出す客もいた。

 

 碓田のぼる『かく歌い来て:『露草』の時代』(光陽出版社・2011年) 帯 300円

 一つ橋美江歌集『如鳥如魚』(遠つびと・昭和18年) 函 200円

 柴谷武之祐歌集『水底』(墨水書房・昭和16年) 函 200円

 天野耿彦歌集『されどわれは欲す』(こだま会青人社・昭和16年) 函 200円

 太田郁朗歌集『崩るる音』(研文館・大正13年) 100円

 

 私の錯覚かもしれないが、上記のうち一つ橋、太田の歌集はかつて私が蔵していたものではないかと思われる。たとえそうでなくとも手放したことを悔いていたので買い直す。柴谷、天野は持っているが、前者は状態がより良く、後者は福田栄一献呈本なので、購入した。

 碓田の本、恥ずかしながら知らなかった。渡辺順三は当然出て来るが、青柳競や窪田空穂ほか、さまざまな人が出てきて大変おもしろそう。碓田も物語を持っている人である。

 

 

 

福田栄一、この花に及かず

 2022年2月25日である。

 

 福田栄一の第三歌集は『この花に及かず』(洗心書林・1948年)。

 

 これは今はなき短歌新聞社の「短歌新聞社文庫」にも入っていて、この文庫本(1996年)はわりと安く手に入る。ただ、元本となると意外と入手困難である。昭和19年夏から21年春までの歌を収めており、日本にとってもそうだが、福田自身にとっても辛く苦い時代の作品である。というのも、昭和十八年から福田は小泉苳三の主宰する「ポトナム」の編集人であった。折から国策による歌誌統合が歌人たちの課題として立ち上がり、彼らの立場をさまざまに変えることになった。「ポトナム」の場合も水面下では複雑な経緯を経ることととなり、結局は解散、「アララギ」と合併する(対等な合併ではなく、実際は一部の吸収合併)。この合併問題及びその後の経過の中で、福田は師・小泉苳三をはじめ頴田島一二郎、小島清ら同門の人々と決別することになってしまい、さらには、「アララギ」に対する不信感もあって、昭和21年5月に「アララギ」を退会する。つまり、本書は福田の「アララギ」時代の歌で編まれた歌集で、そこに敗戦という時代の重さが加わって、痛切な歌群が収録されているのである。

 

 ところで、この元本は猪熊弦一郎の装画で瀟洒に飾られている。猪熊は三島由紀夫の本の装幀で知られていると思うのだが、福田の歌集にも装画を供していたことを知った。版元の洗心書林は、元中央公論編集者の松下英麿の経営する出版社であるから、そのあたりからの縁でもあったのだろうか。いずれにしても戦後の現実を生きる人間の痛みが感じられるよい歌集だと考える。いっけん弱く淡い詠風なのだが、福田はこの「弱さ」を武器とした複雑な歌人なので、その本質を理解する人は少ないが、一度好きになると中毒するだろうと思う。

 

昭和19年作「炎天」

 蟻ひとつわが足もとに歩みきてゆくへを索(もと)めまたゆきにけり

 さむる間にききてをりたる雨の音ふたたびいねて夢に入り来ぬ

 もの思ふわれと草の葉のひかりたまたまわれが揺らぎなむとす

 

 三首目などは福田の得意とする詠み方。このような繊細な抒情は戦前からの特徴。

 

昭和20年作「終末」「戦敗る」

 アララギの少女も家を焼かれしが見にゆきしとき事務とりてゐぬ

 秋草によするなげきといふことなどアメリカにては何にあたらむ

 われの眼にみえわたる天(あめ)のかぎりなし然もなにほどのものが見えむか

 土のうへに永久(とは)なるものをゆめみたるあはれ永久(とは)なる美し悲し

 子とわれと野づら歩めば土に踏むこのかすかなる歩幅をみつむ

 

 受動的消極的な「ぬ」で歌を結ぶことの多い福田である。後に歌壇一般の風潮として久保田正文が『現代短歌往来』(筑摩書房・1988年)で批判している「ゐし」「ゐぬ」が一首目に見られるが、これは福田の歌の欠点だと私は考えている。二首目は後に唱える「思索的抒情」を実作で示した初期のものとも言える作。結局、この「思索的抒情」が何であるかは、福田自身が未完の理論として放棄してしまった感があるのだが、なかなか格好がよくて、特に戦後の歌壇においては清新な印象を与えたものと想像される。そのあたりに編集者であった福田の意外なしたたかさを思わせるところもあるのだ。

矢ケ崎奇峰、良寛、子規

 2022年2月24日である。

 以前に購入していた歌誌「槙の木」昭和24年4月号。復刊第一号であり、矢ケ崎奇峰翁追悼特集号でもある。

 これは窪田空穂門下の岩崎睦夫を中心とした槙の木会を母体とする短歌雑誌で、長野県松本市で発行されていた。

 前年4月15日に逝去した奇峰矢ケ崎栄次郎追悼のために、外部から正宗得三郎「奇峰君と私」、太田水穂「奇峰の追憶」の寄稿を仰ぎ、また、歌誌「槻の木」掲載の空穂の短歌「奇峰死にしか」を転載し、他に内部から三名(野村信次郎、息子の矢ケ崎雄太郎、小山潤一郎)が追想の記を書いている。

 おもしろいのは小山潤一郎の「奇峰氏の印象」で、五つの点に分けて故人の横顔に触れているのだが、そのうちの一つが、「文学会」の思い出である。いつ頃の事か不明だが、俳人野村菱堂が主催して松本の文学青年らを集めて会を開いた。これは奇峰に話を聞く会になったのだが、昔の松本の文化運動や根岸派の俳人たちとの交流について述べた奇峰は、「子規に良寛の文献を献上したのは私です」と言ったそうなのである。

 子規への良寛の紹介で語られるのは、會津八一新潟県尋常中学校を卒業した明治33年に上京し、子規に会った折に良寛を紹介し、後に良寛歌集を送ったという逸事である。この歌集は小林二郎が出版した『僧良寛歌集全』という、もともとは村上半牧が編纂した歌集だと思われる。子規は半牧が誤って良寛作とした旋頭歌を賞賛したりし、八一は後に困惑したりしている。その後の研究では、子規は八一と出会う以前に良寛を知っていた可能性があるとも言われ、それは「新聞日本」の同僚の鈴木虎雄と桂湖南ではないかというのだが、その推測の可否はいまだ分明せずというところだろう。

 そして、ここに全くの別説として、矢ケ崎奇峰紹介説が現れていて少し驚いたのである。ただ、この奇峰の発言は、八一の場合とは違って、裏が取れないことなどから問題視されてこなかったのだと思うが、一応の参考に、こういった発言を小山潤一郎が回顧し記していることだけ、ここに書いておく。小山の回想によると、奇峰も自分が一番最初に子規に良寛を紹介したなどとは言っていないと受け取れるが、仔細は不明である。

高階廣道、釈迢空

 2022年2月23日である。ネットで購入した本。

 

 高階廣道『橿の生』(高階研一・1957年・再版) 100円

 

 これは再版で、初版は昭和23年(1948年)に刊行された。内容における初版との違いは巻末に家族による思い出の記が追加されたことである。父・研一は初版でも書いているが、他に母、兄、妹が故人を追想している。

 高階廣道は大正14年1924年)生、國學院大学予科修了、海軍中尉。戦後の昭和22年(1947年)没。釈迢空門下で、歌集も迢空の選を経て編まれている。序文「『橿の生』の前に」は「高階廣道は、昭和二十二年紀元節近い、冬空の澄みきつた日に、死んで行つた。」で始まる、篤い思いの文章である。「紀元節」はこの昭和23年(1948年)7月20日公布・施行の「国民の祝日に関する法律」によって廃止される(後昭和42年に「建国記念の日」として復活)。この序文の末尾「くり言を書き添へたのは彼の師 釋 迢空」には感動した。歌才豊かな愛すべき青年だったことがわかる。

 

昭和19年

 先がけし人のむくろをふみふみて、なほし行きしが、夢と思ほゆ

 かすみ立つ春日の野辺の花すみれ かく咲きにしか、妹の送りし

昭和20年

 みなし子の兵の心の けなげなる。吾を死なせよすゝめてと請ふ

 かへらざる吾子待つらむか。夕暮るゝ 街にたゝずむ親 こゝかしこ

 さまざまに兵等の思ひ 浮かび来て 今宵の夢の結び難しも

 自らは戦はざりし人の如 言に出て言ふ。かの人人よ

昭和21年

 麦畑の 春浅けれど、ほのぼのと地息立ちつゝ雪とけそめぬ

 人の泣く様を つばらに見せてけり。その匠らのわざのかなしさ

 かへらざる父を祈るか 幼きが 母をまねびて、首垂れたり

 小暗きに 鶯なけるみ吉野の 谷に流らふ霧のゆたかさ

 ひそかなる吾が家の昼を、床内に ひたおぼえつゝ 一日過ぐしぬ

 病室の障子にあたる朝かげに、雀うつりて とび去りにけり

昭和22年

 近々と 久米寺の鐘なりいでぬ。としの夜を越ゆ。厚き衾に

 うから人の深き心を 臥しながら しみじみおもふ。おほとしの夜

三省堂書店池袋本店古本まつり

 2022年2月22日である。三省堂書店池袋本店「古本まつり」。出店は、古書明日、アットワンダー、一角文庫、石田書房、古本うさぎ書林、大村書店、かぴぱら堂、九曜書房、虎十書林、古書瀧堂、中央書房、東京くりから堂、夏目書店、にわとり文庫、吉本書店、ハナメガネ商会、ハーフノート・ブックス、文紀堂書店、ほん吉。本当に全部出店していたかは未確認。

 デパート系の古書展は期待できず、出店者を見ても、ちょっと私には厳しいかなと思った。実際厳しかったが、客はぱらぱらといて、お昼近くになると、老人や、私のような無職者風にまじって、ちらほらと若者も混じる状態になっていた。

 

 橘漣子『さざなみ』(香蘭詩社・1937年) 函 1000円

 市村樵雨『漁火』(下野短歌社・1934年) 函 500円

 

 橘漣子は本名立花聯子。陸軍大将立花小一郎(1861-1929)の息女。村野次郎編纂の遺歌集である。昭和11年(1936年)8月没。たまたま杉本三木雄『盛装』(短歌新聞社・1983年)の「あとがき」を読んでいたら、昭和11年「香蘭」に入会とあった。杉本というと筏井嘉一門下の「創生」の人だが、第一歌集『小流』は〈香蘭叢書〉として出されている。杉本は橘漣子の事はほとんど知らなかっただろうと、そんなすれ違いが心を過ぎった。

 市村は「詩歌」「月草」を経て「覇王樹」同人。序文を臼井大翼が書いている。市村にはすでに第一歌集として『山脈』(白帝書房・1930年)がある。「郷土小唄」また「新民謡」の作詞家でもあって、古賀政男作曲で「野州小唄」「いばらき小唄」をコロムビアから出し、町田嘉章作曲で「悲戀高尾の唄」をビクターから出したりしている。器用な人ではあったようだ。

 今回は九曜書房のみが好みの棚だった。