鶫の書

鶫書房房主の古書蒐集と読書の記録です。

澄宮(三笠宮)、庄野英二、童謡

 2022年2月28日である。

 

 庄野英二『鶏冠詩人伝』(創元社・1990年)に、こんな挿話がある。

 庄野(1915‐1993)は大正11年(1922年)、父貞一が初代校長を務めた帝塚山学院幼稚園に入園したのだが、当時、大正天皇の第四皇子である澄宮(後の三笠宮、1915‐2016)の詞に曲のついた童謡が盛んに教えられていたという。澄宮は庄野と同じ大正4年(1915年)生まれで、子供ながらに宮の詩才に感心したという。庄野がうろ覚えでその詞を書いている。

 

 「サトウ」

 サトウハ アマクテ シロクテ オイシクテ ギュウニュウ ナンカニ イレテノム

 

 「デントウ」

 宮クンガ イソギ ゴショヨリ カエルトキ マチニ デントウ ツキニケツカナ

 

 「坂道」

 四十四、五ノ バアガ 車ヲオシテ サカミチノボリケルラン

 

 「田母沢川」

 タモザワガワワ ナンデモ ナガセ ミナナガセ

 

 二作目は短歌の音律になっている。これは、庄野が幼稚園に入園した大正11年に発行された『澄宮殿下御作童謡集』(大阪毎日新聞社)を見ると「ミヤクンガゴシヨヨリイソギカヘルトキマチニデントウツキニケルカナ」である。少し語順や仮名遣いに違いはあるが、庄野はほぼ正確に覚えていたようだ。よほど印象深かったのだろう。子供が作った歌だから内容は簡単だけれど、御所からの帰りにパッと電燈がついて街の様子が変わったを感受のしているところが好ましいし、カタカナ書きも活きている。澄宮が自分を「ミヤクン」と呼んでいるところなど微笑ましい。庄野のうろ覚えの詞ではあるが、なるほどなあ、と私も澄宮の詩才に感心してしまった。一作目と四作目が特に好きだ。

 

 かつて塩原温泉にあった「塩原御用邸」は現在「天皇の間記念公園」になっているが、そこに三笠宮の歌碑があり、「しほばらの鳥居戸山に出る月は泣き虫山もおなじなるらん」という宮の歌が刻まれた歌碑がある。これも「童謡の宮様」と呼ばれた人ならではの、童心あふれる歌である。

 

 三笠宮は私にとっては最も親しみ深い皇族で、私も以前会員だった日本オリエント学会名誉会長の時に、何かの式典に臨席していた。もうかなり高齢だったこともあって、とても静かな印象であった。

 

 往時の『少年倶楽部』の附録には「少年倶楽部誌友名誉証書」などというものがあって、そこには軍服姿の澄宮の写真が掲載され、「皇室を尊び、御国を愛します。」から始まる「宣誓」が記されたりしていた。それだけ澄宮の少年人気は高かったのだろうと思う。