鶫の書

鶫書房房主の古書蒐集と読書の記録です。

福田栄一、この花に及かず

 2022年2月25日である。

 

 福田栄一の第三歌集は『この花に及かず』(洗心書林・1948年)。

 

 これは今はなき短歌新聞社の「短歌新聞社文庫」にも入っていて、この文庫本(1996年)はわりと安く手に入る。ただ、元本となると意外と入手困難である。昭和19年夏から21年春までの歌を収めており、日本にとってもそうだが、福田自身にとっても辛く苦い時代の作品である。というのも、昭和十八年から福田は小泉苳三の主宰する「ポトナム」の編集人であった。折から国策による歌誌統合が歌人たちの課題として立ち上がり、彼らの立場をさまざまに変えることになった。「ポトナム」の場合も水面下では複雑な経緯を経ることととなり、結局は解散、「アララギ」と合併する(対等な合併ではなく、実際は一部の吸収合併)。この合併問題及びその後の経過の中で、福田は師・小泉苳三をはじめ頴田島一二郎、小島清ら同門の人々と決別することになってしまい、さらには、「アララギ」に対する不信感もあって、昭和21年5月に「アララギ」を退会する。つまり、本書は福田の「アララギ」時代の歌で編まれた歌集で、そこに敗戦という時代の重さが加わって、痛切な歌群が収録されているのである。

 

 ところで、この元本は猪熊弦一郎の装画で瀟洒に飾られている。猪熊は三島由紀夫の本の装幀で知られていると思うのだが、福田の歌集にも装画を供していたことを知った。版元の洗心書林は、元中央公論編集者の松下英麿の経営する出版社であるから、そのあたりからの縁でもあったのだろうか。いずれにしても戦後の現実を生きる人間の痛みが感じられるよい歌集だと考える。いっけん弱く淡い詠風なのだが、福田はこの「弱さ」を武器とした複雑な歌人なので、その本質を理解する人は少ないが、一度好きになると中毒するだろうと思う。

 

昭和19年作「炎天」

 蟻ひとつわが足もとに歩みきてゆくへを索(もと)めまたゆきにけり

 さむる間にききてをりたる雨の音ふたたびいねて夢に入り来ぬ

 もの思ふわれと草の葉のひかりたまたまわれが揺らぎなむとす

 

 三首目などは福田の得意とする詠み方。このような繊細な抒情は戦前からの特徴。

 

昭和20年作「終末」「戦敗る」

 アララギの少女も家を焼かれしが見にゆきしとき事務とりてゐぬ

 秋草によするなげきといふことなどアメリカにては何にあたらむ

 われの眼にみえわたる天(あめ)のかぎりなし然もなにほどのものが見えむか

 土のうへに永久(とは)なるものをゆめみたるあはれ永久(とは)なる美し悲し

 子とわれと野づら歩めば土に踏むこのかすかなる歩幅をみつむ

 

 受動的消極的な「ぬ」で歌を結ぶことの多い福田である。後に歌壇一般の風潮として久保田正文が『現代短歌往来』(筑摩書房・1988年)で批判している「ゐし」「ゐぬ」が一首目に見られるが、これは福田の歌の欠点だと私は考えている。二首目は後に唱える「思索的抒情」を実作で示した初期のものとも言える作。結局、この「思索的抒情」が何であるかは、福田自身が未完の理論として放棄してしまった感があるのだが、なかなか格好がよくて、特に戦後の歌壇においては清新な印象を与えたものと想像される。そのあたりに編集者であった福田の意外なしたたかさを思わせるところもあるのだ。