鶫の書

鶫書房房主の古書蒐集と読書の記録です。

矢ケ崎奇峰、良寛、子規

 2022年2月24日である。

 以前に購入していた歌誌「槙の木」昭和24年4月号。復刊第一号であり、矢ケ崎奇峰翁追悼特集号でもある。

 これは窪田空穂門下の岩崎睦夫を中心とした槙の木会を母体とする短歌雑誌で、長野県松本市で発行されていた。

 前年4月15日に逝去した奇峰矢ケ崎栄次郎追悼のために、外部から正宗得三郎「奇峰君と私」、太田水穂「奇峰の追憶」の寄稿を仰ぎ、また、歌誌「槻の木」掲載の空穂の短歌「奇峰死にしか」を転載し、他に内部から三名(野村信次郎、息子の矢ケ崎雄太郎、小山潤一郎)が追想の記を書いている。

 おもしろいのは小山潤一郎の「奇峰氏の印象」で、五つの点に分けて故人の横顔に触れているのだが、そのうちの一つが、「文学会」の思い出である。いつ頃の事か不明だが、俳人野村菱堂が主催して松本の文学青年らを集めて会を開いた。これは奇峰に話を聞く会になったのだが、昔の松本の文化運動や根岸派の俳人たちとの交流について述べた奇峰は、「子規に良寛の文献を献上したのは私です」と言ったそうなのである。

 子規への良寛の紹介で語られるのは、會津八一新潟県尋常中学校を卒業した明治33年に上京し、子規に会った折に良寛を紹介し、後に良寛歌集を送ったという逸事である。この歌集は小林二郎が出版した『僧良寛歌集全』という、もともとは村上半牧が編纂した歌集だと思われる。子規は半牧が誤って良寛作とした旋頭歌を賞賛したりし、八一は後に困惑したりしている。その後の研究では、子規は八一と出会う以前に良寛を知っていた可能性があるとも言われ、それは「新聞日本」の同僚の鈴木虎雄と桂湖南ではないかというのだが、その推測の可否はいまだ分明せずというところだろう。

 そして、ここに全くの別説として、矢ケ崎奇峰紹介説が現れていて少し驚いたのである。ただ、この奇峰の発言は、八一の場合とは違って、裏が取れないことなどから問題視されてこなかったのだと思うが、一応の参考に、こういった発言を小山潤一郎が回顧し記していることだけ、ここに書いておく。小山の回想によると、奇峰も自分が一番最初に子規に良寛を紹介したなどとは言っていないと受け取れるが、仔細は不明である。