歌集なき歌人、渡邊光風
2022年2月20日である。
自分の歌集を編纂していて思うことがある。
十代の終わりからの作品を一応は記録してあるのだが、当然ながら現在の眼から見て、歌集に採録出来る歌など一首も無い。二十代もそうだ。これはちょっと驚きでもあったが、当然のことかとも思う。三十代の半ばくらいからか、ようやく現在の自分の眼からも最低限許される程度の歌が散見されてくる。
このまま歌集を出さずに、例えば五十歳になったとしたら、現在の歌も評価しないのだろうか、と考える。答えはむろん出ないが、他の人を見ても、中年になって若年の頃の自分を否定する場合はあるが、老年に至って中年の自分を否定する場合は少ない。そのようなところに人の心のおもしろさというものが、またあるのである。
なぜ歌集を今まで出さなかったのか、また、出さないのか、と聞かれることがあって、気にかけてくれる人々には感謝の気持ちしかないのだが、一つにはこういった懸念を二十代三十代の頃に持っていたということがある。むろん、経済的事情が一番大きいのだが、これは無理を言えば生家のほうでなんとかしてくれたかもしれない。
それから私は渡邊光風という歌人に関心を持っていたことがあって、内田茜紅は彼を「歌集なき歌人」と言ったのだが、歌集を出すともう一生涯「歌集なき歌人」には戻れないということがある。「歌集なき歌人」というのがいわば歌人としての理想の境地で、歌を詠み散らしながら生きてそのまま死んでもいいし、死んだ後に惜しむ人があって歌屑をまとめて出してくれたらならば、それこそ最上のことであろうと思う。
そんな気持ちもあって、自分は歌集を出さないのである。「歌集なき歌人」というのもさっぱりして、気楽で、好きなのである。ここに戻れないということは、本当に惜しいことだ。